私のアクティブライフ 2011年
 その44 ずいぶん変わりました。50数年で。
ずいぶん変わりました。50数年で。
終戦後父はこの土地を入手しました。
父母の生家には大勢の農作業をする人がいましたが戦後の農地改革で土地のほとんどが農作業をしていた人達のものになってしまい自分の所にはわずか数町歩しか残らなかったそうです。その為末っ子の父はこの地に出たそうです。

 私はサンフランシスコ平和条約が発効された年に生まれました。

 1955年ごろ建てた家です。松林と畑、近所には七軒の家があるだけでした。広く平らな地形でキジ、野ウサギなどもいました。

 父は農業、畜産業をなりわいとしていました。

 この頃は家畜の品評会も盛んで父の飼育している家畜は父に美味しいお酒を度々飲ませてくれたそうです。 東京都の牛の品評会で一等賞になった牛です。親兄弟がお祝いに来て記念撮影です。1955年

 この時の東京都知事は東竜太郎という方でわざわざ賞状と記念品(大理石の時計)を都知事本人が届けてくれたそうです。その訳は毎日の作業が忙しく都庁まで出向く時間が無いと連絡した為だそうです。

 第四代東京都知事 東竜太郎

 そのような事が続き父は畜産業に力が入っていました。よその牛舎では見たことのないウォターカップというものをつけました。この装置は牛がいつでも新鮮な水を飲むための装置で牛の鼻で蛇口を押すと水が出ます。1958年

 更に力が入ります。父の牛舎には見物人が多く来るようになりました。自動乳しぼり機(搾乳機)を導入したからです。牛の4つの乳を同時にしぼります。機械好きな父だから導入できたのかも知れません。1960年その後牛の数も順調に増えたのですが私の母親が体調をくずした事で牧場家の夢は捨て公務員の道を選びました。その時に牛は全て仲間の牛飼いに引きとられました。その牛飼いは家より頭数が多いのですが全て手しぼりでした。我が家の牛を引き受ける条件として搾乳機もつけるという事でした。その為子供の私が数日間指導に行きました。

 庭からは狭山神社方面の山が見えました。今では考えられません。写真は1962年頃。
 屋根に上れば八高線を走る蒸気機関車が良く見えました。蒸気機関車の運転手に踏み切りで敬礼をすれば必ず敬礼を返してくれ喜んだ思い出があります。写真は小遣いを貯めて当時500円で買ったカメラで撮影。写真1962年頃。

 我が家では子供も毎日が戦力でした。学校から帰れば畑の手伝い、家畜の世話、まき割り等々何でもこなします。私は7歳の時から自分の牛をもらい世話をしました。もちろん乳しぼりもしました。小さい子供でも大きな牛を自由に連れて歩くことができます。
牛が暴れだしたりした場合は牛の鼻についた鼻かんという鉄の輪を強くひねります牛もこの痛さにはたえられず子供にも従います。写真は山田農場さんの牛です。
 1965年東京オリンピック景気で沸く日本では大きな建物が次々に建ち始まりたいへんな建材不足になりました。
 その時この地域の地下の砂利が目につけられました。静かで良い所でしたが大型の重機が搬入され数町歩という砂利穴が数え切れないほど出来ました。
 砂利穴は深さ20mという規制はあったようですがほとんどの穴は30m以上の深さまで掘られたようです。東京オリンピックは1964年です。
 砂利を採掘した跡には大きな水溜りがいくつもできました。水の多い時季には泳ぐ事もできました。深さ3mくらい。鳥が運んだのかフナが殖え釣りをする人も来るようになりました。なんといってもガマカエルの異常発生です。。夜になると道路には石を敷き詰めたように出て来て繁殖行動をとります。車で走るとタイヤの通った跡にはガマの干物ができるほど。夜の外灯の下にもガマは集まります。外灯に集まる虫をねらってきます。このガマの大群を見てからガマが一番のにがてになりました。又、当時では珍しい発泡スチロ-ルの箱なども捨てられそれを拾いに来た老人が誤って落ち亡くなったという事もありました。

 砂利を採って大もうけした採掘業者が次に考えた事は深い穴をどのように埋めるかでした。それは産廃処理場でした。あらゆるごみを受け入れました。近くの市町から出るごみもどんどん運び込まれました。結果カラスが集まり、ねずみも殖え、ハエの大群が発生しました。色々なごみが埋められた為ガスが発生し火災も数え切れないほどでした。私が撮った写真です。
 1970年10月10日現羽村高校付近の砂利穴に廃科学薬品を不法投棄してあわてて逃げてきたのですがダンプカーの荷台を下げるのを忘れて羽村街道歩道橋の橋げたに挟まったどじなダンプカー。この写真も私が撮影したものです。翌日の読売新聞の紙面に載りました。その他にも砂利穴関係の写真を他紙および隣り町役場の担当者に提供しました。又多くの警察所も何かを探しに来ましたがこれでは駄目だナ~の一言で引き揚げた警察官もいましたが捜査一課・捜査二課などという警察官も来ました。しかし収穫はなかったようです。当時私は学生で近くの林、砂利穴などでバイクを乗り回していた為話を聞かれたものと思います。

 1975年(昭和50年)当時の航空写真地図です。この頃になると家、工場も少し増えて来ました。砂利穴にはまだごみが捨て続けられていますがこの砂利穴には薬品、汚物(人糞)等は私たちの親が頑張っていた為捨てられませんでしたが他の砂利穴はひどいものでなんでも捨てられました。私の裏の砂利穴は約二町歩(約6000坪)です黒い線内が砂利穴です。緑の線が山道ですが砂利穴が崩れてこのような道は砂利穴にのみ込まれて無くなってしまいます。穴と穴間の道は崩れて無くなり大きな一つの穴になります。紫色は八高線箱根ヶ崎駅方面へ向かう道ですが昭和50年代半ばからの区画整理事業によりなくなりました。青い矢印は私の家です。

 1983年頃私の家に近い砂利穴はほとんど埋め立てが終わりましたが地球ができた当時のものではない為地盤は沈み続けます。その為この土地を町が借り受け長い間松原グランドとして野球などを楽しむ方々が利用しました。

 私の家には深さ約26mの井戸があります。裏の砂利穴は深さ30m以上掘られた為冬場の渇水期には井戸ポンプが空回りして水を思うように揚げる事ができません。
穴が掘られる前にはどんな時季にも水が足りないなどという事はありませんでした。ちなみに砂利穴を掘るために地面の表土を採った時点で水はにごり飲料水としては適当ではなくなった為近所七軒の親たちが突貫工事(手掘)で数キロ水道管を埋設しました。裏の砂利穴にはひどい物は捨てられなかった為現在の井戸水10項目検査ではとりあえず良いですよとの事です。
少し時代は戻ります。
 この地域には源兵衛山と名がつく松、杉、雑木の林が多くありました。時代の流れで(需要と供給)この名前の林もすがたをけしましたがこの名前の方は東京都の一番奥の町の方で代々、木村源兵衛と名のっていましたが今は違うようです。この方は日本の民有林の30%を保有する方で日本でもトップクラスの山持ちだそうです。
 どうしてこの町のこの方がそれだけの山を保有できたのかは判りません。私の父はこの林からまき、たい肥を作る為の落ち葉をもらい山主は林が荒れなくて良い。お互いに良かったようです。父の戦友たぶん四国と聞いたような・その戦友が育った所にも源兵衛山という広大な広さの山があったそうです。
静岡県には源兵衛川という川もあるそうです。この川の名前も源兵衛山から流れ出す川でその名がついたようです。
 私の知り合いの又知り合いで名前は忘れましたが成木の(青梅市の一部)山はおらが山だ~なんて肩で風を切るような方がいましたが隣町の木村源兵衛さんを知らなかったんでしょうね。
 源兵衛山の番頭さん(10年くらい前に他界)に当時父が砂利業者にどうして譲渡したかたずねた所木(山)を売ったと言われたそうですがその後に土地ころがしの手に渡って穴へと進んだようです。
※ちなみに山には税金が掛からず売った時だけ税金が掛かり相続しても相続税は掛からないようです。

 源兵衛山と言われた頃には掩体壕(えんたいごう)がいくつかありましたこの山の掩体壕は約300坪の広さで周りを高さ2m幅1.5mくらい土を盛りその中に航空燃料、オイル、弾薬などが入ったドラム缶がびっしり並んでいたそうです。
 横田基地から10分、高射砲陣地からは3分くらい樹高のある松林を利用し上空から簡単に見えない掩体壕だったようです。

 飛行機用の掩体壕です。広く隠せる所の無いような場所にはコンクリートで作ったり、岩盤(がんばん)をくりぬいたり大掛かりな物だったそうです。
 東京消防庁が山火事に対しての消化訓練をしています。植林された山・木を守るのも仕事の一部でしょうね。この地域の山もほとんどが源兵衛さんのものだそうです。奥多摩湖です。

 後に(1978年)羽村動物公園などができたところです
 この辺り一帯は戦時中日本軍の高射砲陣地だったそうです。高射砲は1万mの上空を飛ぶB-29爆撃機を撃墜するべく四門が大空に向いていたそうです。
 東京大空襲・武蔵野・八王子大空襲の時も長時間にわたって火を吹いたそうです。ちなみに当時の日本の戦闘機ですが離陸して高度1万mに達するのには1時間掛かったそうです。当時の飛行機のエンジンには過給器(スーパーチャージャー)は無く徐々に高度を上げて行ったそうです。
 八王子大空襲の時も厚木基地から戦闘機が数機飛び立ったのですが後の祭りだったそうです。

 戦後アメリカ軍に接収された高射砲陣地ですが日本が敗戦して日本の手から離れた朝鮮半島では朝鮮動乱が勃発。北にはソ連・中国が付き、南にはアメリカが付き3年あまりも同民族が戦ったそうです。その時朝鮮半島に近い日本も攻撃の対象になると思いアメリカ軍は高射砲陣地を温存して置いたようです。
 大きな松林に隠された高射砲陣地があった事を知らない人の方が多いでしょうね。1958年春には高射砲陣地は閉鎖されたそうです。
 1958年秋、私が小学1年生の時に初めてアメリカンスク-ルの存在を知りました。私の家から西方面に約500mの松林には3m近い高さの有刺鉄線が広い範囲で張りめぐらされていました。
 小学校に入り行動範囲も広くなりました。ある日なにを考えてか思い出せませんが有刺鉄線沿いに林の中を歩いて行くと大きな頑丈そうな門があり白ずくめの服を着た大きな人が2人立っていました。それに気が付いた時相手の2人はすでに私を見ていたようです。鉄砲を持ってなにやら私に近くに来いと言うようなしぐさをしました。怖いのですが近ずくとなにやら話すのですが解かるはずがありません。子供ですからどこから来たかくらいの事を聞かれたのでしょうが思うに子供の頃で一番恐ろしい思いをした瞬間だったものと思います。
 家でその話をしたらアメリカ人の学校だという事が判りました。白い服を着ていたのはMP=学校を守る憲兵だと思います。国道16号方面から羽村街道を通る黄色いバスを10台くらい時々見ていました兵隊の子供たちはこのバスに守られて登下校していたそうです。

 私が18歳頃には(1970年ぐらい)アメリカンスクールは横田基地内に移り軍関係が使用した建物は全て撤去され柵と大きな木で囲まれ知る人ぞのみの素晴らしい空間でした。広さは30000坪くらいはあったと思います。

 この頃は周りに民家も無くサーキットにもなりました。アメリカンスクールとして使用していた頃のランニングコースが私たち仲間の趣味で走りのテクニックの必要なラリー走行などの練習には最高の場所でした。  

 公園の周りの樹木です。当時の夕日は綺麗でした。
 数年後知る人ぞ知る私たちの公園の近くに団地も出来始めました。すでに私たちはサーキットとして使用はしていませんでしたが爆音を出して走るグループが出入りし松の大木に激突炎上した事をきっかけに警察も見て見ないふりはできなくなったようで車での出入りは出来なくなりました。
 1978年、羽村動物公園が開園しました。この動物園の入り口前には下水道道路という道があります。この頃この道から東側に多くの公共施設が作られました。
 小学校・中学校・高校・老人ホーム・病院・自動車学校(15施設くらい))などほとんどの建物が砂利を取った砂利穴跡地です。町としての砂利穴利用方法も考えるべきだったと思いますが穴だらけのこの地域では仕方が無かったんでしょうかね。
 そのような中でアメリカ軍が接収し学校として使っていた場所だけは穴を掘られずに残った所です。
この地区で唯一穴でない所に建っている公共施設です。
羽村動物公園公園 松林小学校 羽村養護学校

 2010年秋、羽村養護学校ですがどうした事か昔からの松の木が切り倒されています。このような太い松は過去に見た事は無いです。

 養護学校近くの杉林です。砂利穴跡地に約30年前に植林されたものですが栄養不足の為か太さ15~20cmぐらいです。
 この場所も米空軍関係でした。

 瑞穂エコパーク(公園)この場所は防衛施設庁が米空軍横田基地に離着陸する飛行機の為の接近灯(誘導灯)が設置されていました。科学の進歩で灯数が減り短くなると共に新青梅街道ができ大幅な用地の使用変更があった為、公園として町が借り整備したものだと思います。
 接近灯(誘導灯)です。私が子供の頃設置されました。接近灯の大きさは大きな鍋ほどありましたが今ついているものはずいぶん小さいです。当時入れないようになっていましたが子供ですからどこからともなく入ったようです。その時父親に強く言われた事は絶対に登るんではないと言う事でした。
 接近灯の下で飛行機の離着陸予定時間になり基地から電気を送るとキーンという機械音がして大きな電気がビカビカ点滅を始めます。子供ながら寒気がする音でした。又、区画整理で道などが変わり50年近く前ですからここだとは言えませんが養鶏業を営んでいたと思われる廃屋があり小学校の帰り道の遊び場でもありました。この養鶏業者ですが接近灯が設置される為よそに移ったものだと思います。

 エコパークで月に一度開かれるフリーマーケットです。見るだけでも楽しいです。以前たまたま来て買った盆栽ですがめぐり合わせしだいでは楽しい買い物ができますね。ここには犬を放して遊ばせるドックランなどもあります。

 この公園の近くを八高線(JR)が通っています。1996年(平成8年)に電化になるまではディーゼルカーでした。
 八高線箱根ヶ崎駅手前にはトンネルがありました。このトンネルができた訳ですが冗談のような話です。戦後米軍に接収された横田基地から離着陸する飛行機の部品落下事故が非常に多かったそうです。一目で飛行機の部品だと判るタイヤなども落ちていたそうです。その為飛行コースの真下をトンネルにしたそうです。私が子供の頃数度見た飛行機の墜落事故も報道などは一切されませんでしたからタイヤが無くなったくらいでは「またかよ」で終わりでしょうね。飛行機の落し物が無くなった為電化工事と共にトンネルも無くなったようです。

 このトンネルの周りには野生のケシが普通に生えていました。また山菜でも採るかのように普通に採取している人がいて採取を手伝いキャラメルをもらった覚えがあります。10歳くらいの時です。写真の花はポピーですがケシも同類です。

 1970年(昭和45年)箱根ヶ崎駅構内です。通勤通学の時間以外は静かなものでした。

 1967年(昭和42年)頃の航空写真です。家の近くの畑の中に瑞穂第四小学校が出来ました(昭和39年頃)。これは町外れに東京都が大きな都営住宅を造った為です。
 当初は瑞穂第一小学校に通っていたのですが児童が増え続けた為新しく造ったものです。 青い枠の中です。赤い枠はどじなダンプカ-が挟まった歩道橋です。紫色の線は羽村街道です。


 私が16歳の頃敷地内にモトクロスのコ-スがありました。休みの日などは仲間が集まり楽しみました。周りには迷惑をかけるような家も無いのですが
 赤鬼のような顔をした駐在さんがやっと走るようなボロバイクに乗りけちを付けに来ますがここは親の土地だと話すと・そうか・と言ってすぐ引き返します。しかしこの駐在さんよほど仕事が無かったのかその後もしつこくボロバイクで来ました。


 、この時代は大型バイクでも一般道はヘルメット無しで走行は可能でした。ツ-リング(遠乗り)などの時はヘルメットを着用しました。この頃中央高速道路八王子以西も一部開通しました。

 1970年我が家で新しい家が出来ました。まだまだのんびりした静かな所でした。

 この頃は高度経済成長時代でした。家を新築すると群馬・埼玉方面から庭石を積んだ石屋が回って来ます。午前中に石を買いそうな家を見ておいて夕方頃来ます。
 石屋の決まり文句「今日は売れなかったから安くするので置いていかせてください」です。こんな文句の石屋に我が父は相当付き合ったようです。又石屋が石を売りつくすと次は植木を積んできます。石屋になったり植木屋になったり忙しく変身します。

 植木屋に変身した石屋さんから植木も色々買ったようですが現在残っているのはソテツが一本だけです。この業者のトラックには武州-小林と看板が書いてありました。今でも営業してるでしょうか?

 父親が大枚はたいた石ですがほとんど池の中に沈んでしまいました。合掌。

 1970年代の3月ごろになると渡って来た渡り鳥の北帰行の群れを早朝よく見るようになりました。20~30羽の群れが30mくらい頭上を飛び去る時の羽音は凄いもので初めてですと天変地異でも起きるかのような不気味な羽音です。白鳥など大きい鳥が宙に浮くのですから当然ですかね。先頭を飛ぶ鳥に対して<の字のように広がって飛ぶ様子はテレビなどでも見ますがその通りでした。90年代から北帰行のコースが変わったかほとんど見なくなりました。

 1975年(昭和50年羽村市)23歳で初めて自分の店を持ちました。その後順調に店も増えました。

 1981年(昭和56年青梅市)寿司店の隣で経営していたスナックがガス漏れ事故で爆発。寿司店・スナック・近所の家を駄目にしてしまいました。
 この時店を任せていたのは米空軍(横田基地)をリタイアした米国人でした。ちなみに爆発事故の前年、近くに従業員用の寮を作ったばかりでした.。

 1983年(昭和58年)秋。
 ガス爆発から2年、生まれ育った場所で大きな宴会ができる店を造るという夢がかなう事に。
 家の周りには竹やぶ・かし・けやきなどの大木が植わり大きな物置もありました。店は職人に任せて大きな穴を掘り全て燃やしました。一人での作業ですから大変でした。

 1984年(昭和59年)の航空地図です。この地域の区画整理もだいぶ進みました。紫色が昔からある道です。砂利穴跡地もいつの間にか三丁目グランドとなっていました。地盤もだいぶ安定したようです。周りには家も少しずつ増えてきました。

 2月14日いよいよ建ちはじめました。

 夕方にはほぼ立ち上がりました。

 この地域の上棟式ではお金とお餅をまきます。裏方さんたちはその為の餅をついてくれてます。

 4月20日には防護ネットも外され始めました。

 6月1日建物は引き渡されました。

 開店披露宴は多くの方に来て頂いた為2日に分けて行いました。

 子供たちもみんな疲れました。
当店が開店した当時屋上からは360度遠くまで見通せました。1984年です。

 当店から西方面を望みます。まっすぐ進むと羽村駅方面です。都立羽村養護学校が近くに見えます。

 長岡、新町方面には釣具のダイワの倉庫が出来ました。この倉庫がなければさらに先まで望めます。
このあたりの見える所はすべて砂利を採掘したあと地です。

 当店から北方面です。遠くには秩父方面の山が見えます。大型の重機が入り住宅を造る為の造成工事が始まりました。

 当店から北東方面です。昔からの松林がまだ一部残っていますが切り倒されるまでに時間は掛かりませんでした。
 当店から東南方面です。この方面は家がだいぶ出来ていますがまだ空き地も多く見られます。左下の空き地には町内の集会場が後に出来ます。緑道に植えられた桜もまだ苗木程度です。  当店から南方面です。1989年になりました。まだ空き地も見られます。緑道の桜(左端・赤い木)ですが花見ができる大きさまで伸びましたが後に色々な問題が発生して約3mの高さで切られる事に。

 当店が開店し数年で区画整理もほぼ終わり住宅がずいぶん建ちました。昔からの松林も少し残ってます。
 2006年(平成18年)航空地図です。紫色がこの地域で唯一残った昔からの道です。青い部分が当店です。中央の黒い線の左・黒い斜線が砂利穴あと地です。その他この地域には個人が砂利を採った小さい穴もいくつかありました。

 1988年右上の山が中央公園にすがたを変える前です。穴には川の汚泥のような物を投棄し続けついには高さ10mも積み上げてしまいました。
 どのような事で町の公園になったのか判りませんが凄かったです。左上奥には羽村松林小学校、羽村養護学校が見えました。さらに左には江戸街道公園が見えます。

 1998年秋残土の山を公園にすべく整地作業が始まりました。大型の重機が投入され突貫工事で完成しました。

 1989年(平成1年)になると我が家の屋上から見る限りでは空いている土地はほぼ見えなくなりました。
 砂利穴のおかげで近くに広く綺麗な公園がいくつもあります。これだけは感謝できますね。

 約25年前から増え始めた住宅ですが当時からの方はずいぶん少なくなったようです。建物も新しく造り変えて売り出されています。
 町の施設です。大金を掛けて建設したようですが今は造るべきではなかったと言う話も多く聞きます。又、町の施設の手前の工場群ですが当時の経営者がそのまま経営を続けているという工場はほとんど無いようです。
我が家も変わりました。

 私が子供の頃植えた柿ですが大きくなりました。数年前までは一輪車に3台くらい採れましたが柿も歳の為か隔年結実になってしまいました。木が衰えるのも長い間見ていると良く判ります。

 私が子供の頃から池がありました。約8トンの池です。この頃は錦鯉とは言わずに緋鯉(ヒゴイ)と言っていました。

 緋鯉が調子を悪くすると父はインクを池に入れていました。当時父が言うにはこれを池に入れると鯉にはいいらしいんだよと言いながら小さいインクを一ビン入れていました。今でいうマラカイトグリーン・メチレンブルーなどの水が青くなる薬の考え方の大元でしょうね。
 父もその事をどこで聞いたのかは判りませんが養殖業者の間では一般治療方だったのでしょうね。ちなみに日本ではマラカイトグリーンなどは発ガン性物質として数年前から使用は禁止されています。

 池のわきには15坪総二階くらいの鳥舎がありました。クジャクをはじめ外国の珍しい鳥が数十羽この中で放し飼いされていました。
 この鳥舎が出来た当時周りに家も少なく遠くからもよく見えました。その為個人のゴルフ練習場と勘違いしてゴルファーが尋ねて来たそうです。

 父が亡くなり数年しました。近くに住宅も増え朝一番の鳥の雄たけびが気になるようになりました。多方面の小学校などにもらって頂いたのですが行き先が決まらなかった鳥は旅に出てもらいました。多方面に放鳥。

 1997年(平成9年)洒落た池を造りたいと考えていたのを実現する時が来ました。大きな鳥舎を解体しました。

 私が先々代から親しくして頂いている神社の神官に御払いをお願いして着工しました。

 家族の手を借りての作業でしたので完成まで時間は掛かりましたが洒落た雰囲気にできたと思っています。

 新しい池に鯉を放してこの池は解体しました。父が作った鳥舎・池共に色々な流れでつぶしてしまった事に合掌です。
 父がこの地に出たのは1945年頃です。当時一町歩(3000坪)を300円で買ったと聞いたような気がしますがうる覚えです。
 戦後の農地法で新しく農地を求めて農業をする場合の広さの基準は一町歩と決まっていたようですが時代の流れと共に首都圏で農業をしなくても違う利用方法があるだろうという考え方をするおえらいさんが出て来て専業農家以外は認めない流れになり農地なら坪一円くらいの課税に対して兼業農家の農地には、はるかに高い課税を掛け土地を持ちこたえられないようになり土地を手放すと言うより安く取り上げる政策が動き出しまし兼業農家は無くなる方向に向かいました。

 耕作しなくなった畑は私が自由に使いました。

 2000年(平成12年)頃だったと思います。私より若い方で親が専業農家で息子さんは務めをしながら農家を手伝っていました。お父さんは75歳くらいで頑張っていたのですが歳だから専業農家の事業主として認めないという通達を受けて息子さんは仕方がなく務めをやめました。
 このおかしな農地法は翌年撤回されましたが勤めをやめざる得なかった息子さんは腹が立ったでしょうね。

 日本最大の悪夢の事業。秋田県八郎潟の干拓。米の増産を目指して日本中から農民が入植し米の増産を目指しましたが最終的には減反政策により闇米などが大さわぎになり環境面でも大失敗結局泣くのは農民。
 1970年に来た事がありますがカラスが異常に多く不気味な思い出があります。

 長崎県諫早湾干拓事業。これもひどいものだと農・魚民泣かせのむちゃくちゃ事業だと思います。この事業は1990年頃から始まりました。
 八郎潟では20年も前から減反政策で苦しんでいるのに農地を増やせなどとおかしな事業。農地も塩分が抜け作物が出来るとなったら政党が変わり堤防排水門の開門。一次産業従事者はどこまで苦しめられるのですかね。
 1981年に長崎に来ましたが大村湾など静かな海という印象が残ってます。

 TPPももうすぐです。どうなりますか米農家も戦々恐々でしょうね。